法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

冤罪事件で被告を支える苦労について

普段は読まない雑誌に目を通すと、興味深い観点の記事が見つかることがある。
たとえば2009年7月22日の『婦人公論』では、「菅家さんを支える会・栃木」代表の西巻糸子氏が冤罪支援活動について振り返る記事があった。


まず、控訴審判決が棄却された1996年5月9日ごろの話がやるせない*1

 その頃から少しずつ菅家さんを支える運動は広がっていったのですが、当初は、嫌がらせも多かったですね。自宅に無言電話がかかったり、真っ白なファクスが送られてきたり。男の声で「馬鹿野郎、あいつが犯人だ」と怒鳴られたりもしました。「私はあの男が、女児を誘拐するのを見た」とか「女の子を変な目で見ていた」とか言う人も。そんな時も、私の夫はのんきというか、おおらかな性格で「どうせ、そんなこと言う連中はみんな匿名でしかものを言えない人だよ。気にしないほうがいい」と言ってくれました。

たまさか西巻氏は家族が支えてくれたわけだが*2、折れる可能性もあっただろう。


次に興味深かったのは、よく報じられる非合理な裁判経過のみならず、事件に興味を持って関わっていった経緯や、被疑者の人間的な揺らぎも語られたこと。
菅家氏と同じく、西巻氏も事件のあったころ足利市で幼稚園バス運転手のアルバイトを始めており、報道を見て「可愛い子供に囲まれて仕事をしている人がそんなことするのかなあ」*3と腑に落ちない気持ちを抱いたという。ただし仕事での面識はなかったそうで、他の幼稚園バスとすれ違う際に挨拶するよう指導されていても新人だったため顔を確認する余裕すらなく、顔すら記憶に残っていなかったそうだ。
それから報道を熱心に追った西巻氏は違和感を持った。一審の中盤まで容疑を認めていた菅家氏が第6回公判で始めて否認しながら、次の第7回公判では死刑が怖くて否認したという上申書を出したことに対し、「どうも嘘臭い。菅家さんが上申書なんて知っているのだろうか。検事が無理やり書かせたのでは」*4と。西巻氏自身によると、そのころ狭山事件の本を読んで冤罪に感心を持っていたためかもしれないそうだ。
西巻氏は友人に教えてもらった東京の救援連絡センターに相談し、一審途中の1993年1月31日に拘置中の菅家へ手紙を送った。報道で犯人と思ったこと、今でもわからないこと、しかし一度否認したのは大事なこと、西巻氏の周囲にもおかしいという人がいること等を率直に書いたものだったらしい。
そして菅家氏から返信が来たのだが、最初は礼や拘置所生活や家族の話に加えて、見守ってほしい旨まで書かれていたのに、次の手紙では外部で騒ぐことを拒否して手紙も終わりにするよう書かれていたという。さらに続けて、そっとしておいてほしいという手紙も届いたそうだ。最初から手紙を断らなかったことから菅家氏の気持ちが揺れていると西巻氏は気づいたが、人によっては卑劣な凶悪犯の態度としか思えないかもしれない。
同年3月5日に拘置所へ行っても、食べ物こそ受け取ってもらえたものの面会を断られ、渡した2000円は面会を拒む手紙とともに現金書留で返された。さすがに西巻氏もあきらめようかと思ったという。3月11日に論告求刑で無期懲役が出て*5、面会を断ったことを謝る菅家氏の手紙が3月18日に届かなければ、西巻氏の気持ちも折れていたかもしれない。


現在にいたる支援者の心情を読んで、冤罪と確信し続けることの難しさを感じた。
他の冤罪が疑われる事件と比べても、足利事件裁判の異常さはわかりにくい。菅家氏は何度か否認しつつも、すぐ撤回してかたくなになる。DNA型鑑定という物的証拠も存在した。
推理小説を好んでいたためもあって当時のDNA型鑑定に信頼性がないことは知っていたが、そのまま物的証拠とされたものに疑いをさしはさめるわけではない。加えて何度も前言をひるがえす菅家氏の姿は、口先で逃げようとする安易な凶悪犯像と変わりない。実際に裁判では心証を悪くしたことだろうし、西巻氏もあきらめかけた。
西巻氏は家族の理解もあって支援を続けることができたが、個人の努力に依拠し負担をかける活動ばかりな社会が健全とは思えない。取調べの可視化といった現場の改革はもちろん重要だが、外部の支援活動を助ける制度も必要ではないだろうか。

*1:50頁。

*2:ここで家族の助けという要素が記述されるあたりに『婦人公論』独特の観点があるかもしれない。

*3:49頁。当時の気持ちを西巻氏が回想した大意。なお、この西巻氏の気持ちは素朴な感想にすぎず、あくまで性犯罪の正確な把握とは異なる。

*4:49頁。

*5:菅家氏は懲役13年くらいだと楽観していたため、落胆が大きかったようだ。