法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

実は全て同じ話

思い返せば、表現規制が話題になった作品……映画『靖国』でもマンガ『ヘタリア』でも、まず周辺の動きに気になることが多かった。考えてみれば当然だ、規制の動きが外部から可視化されるのは、作品外部から規制がはたらきかけられた場合が主なのだから。
ゆえに、ここで一つ注意しておきたい。
「フィクションはあくまでフィクションかもしれないが、すくなくともフィクションのレビューはフィクションではない」
表現の話ではなく*1、応答の話なのだ*2


作品自体より周囲を問題視しているため、たとえば野田聖子議員をモデルに作られているというエロゲーも、完成した作品の存在については擁護に回るかもしれない*3。この点においては、NaokiTakahashi氏と逆の感覚を持っている。
はてな
ただし、エロゲー自体はフィクションであっても、制作者の発言まで全てがフィクションになるわけではない。小説は虚構だが、後書きは基本的に現実として扱われる*4。制作意図や制作状況が公開されていることを自覚して行動しなければ、まさに「工作員」的な行動にしかならないだろう。
実際に書き込みを見た限りでは、あまり用意も覚悟もできていないと判断せざるをえない。そもそも率先して状況を動かしているわけでもない一個人に全ての原因があるかのような作りからして疑問が残る。しかしこのような意識で制作された作品であっても、極まれに制作者の意図を超えた主題を獲得できるのが、表現というものの面白さだとも思っている。


表現と別個に表現者の態度が問われる一因として、インターネットの特性とも関わってくるかもしれない*5。制作側の情報が広まりやすくなったこと、作者と読者の距離が近いことという……つまるところ、今回の件で制作側が意見を書きこむ時、事態を悪化させたくないのであれば、通常以上に慎重さが必要という、今さらすぎる話でもある。
はてな

批評性のあるもの、高い意識で書かれているもの、風刺やパロディとして成立しているもの、などは規制されるべきでない、なんてのを、政治家や警察官や裁判官が判断して、規制や逮捕の基準にすべきだと思う?

たとえばこの発言は、マッド・アマノのパロディ裁判*6みたいな例がすでにあることを言及した上で書くべきでは。司法も、境界線上の判断では迷うことが多いはず。

*1:もちろん表現の話も重要だが、とりあえず脇に置いておくということ。

*2:つまり南京大虐殺に対する態度とも、一個人の発言が唯一の接点ではなくて、最初から繋がっているわけ。

*3:あまりゲームをやらないので、システム面の感想を書くことはできないと思う。あと、存在は擁護することと内容を擁護することは違う。

*4:ある程度まで現実であることを期待されるためか、たとえば作中人物が登場するような古い形式の後書きは、現在の一部読者からは拒絶される。

*5:作者自身が語ったことと作品との差違は、マンガ『ヘタリア』へ最初に言及したエントリでも要点として扱った。http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20090117/1232170184

*6:かなり厳しいと思われた風刺表現でも勝てたという、おそらく反規制活動側にとって良い影響を残した裁判と思っていた。マッド・アマノ氏が陰謀論者に堕した現状と合わせても、色々と参考になると思う。