法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

嵐に耐える木は、広く深く根を張るしかない

本題にするつもりはなかったが、書いておきたいことが少し。
革命的非モテ同盟跡地

id:hokke-ookami氏はマンガ表現の地位向上を論じましたが、しかしながら「エロ」マンガの地位が向上したかといえば、言えません。漫画ブリッコの文化的な価値が評論家の間では論じられていますが、はたして地位が向上しているか、これから向上する見込みがあるかと問われれば、まずありえないと判断せざるをえないでしょう。

朝日新聞ロリコンマンガ作品を紹介できるくらいの居場所はえている。数年前、特殊歌人枡野浩一氏が、担当していたマンガ紹介コラムで町田ひらく*1作品を紹介していた。単行本にもまとめられている。
ちなみに、この紹介をめぐっては、エロマンガ評論家の永山薫氏が「評価しやすい作品だけを紹介していては、エロマンガ全体の豊穣さを見失いかねない(超要約)」と疑問をていし、対する枡野氏が「ブンガク的だから紹介したのではなく、私自身の性嗜好に忠実たらんと紹介したのです(超要約)」と返答したやりとりも面白かった。
もちろん、朝日新聞エロマンガ全般を好意的に紹介する流れがあったわけではない。多数のマンガを好意的に紹介する流れで、極一部のエロマンガも顔を出すことができただけといえる。しかし、マンガ全体が俗悪としか評価されない社会であれば、極一部を紹介する機会すらなかったことは容易に想像できる。


前のエントリ*2についたブックマークコメントへの返答ともなるが、性描写を外して一般向け作品に装いを変えた作品数が増えることは、エロゲーが居場所を確保する足がかりくらいにはなるだろう。
もちろん、陵辱ゲームまでが居場所を確保できる未来はしばらく来ないだろう。しかし、同ジャンルの全作品が同時一律に居場所を確保することなど最初からありえない。
小説もマンガも映画もアニメも、それぞれ娯楽として拡大する時期には、たいてい社会から俗悪視されていた。そして芸術の皮をかぶった作品、大作として広く公開される作品、今も俗悪視されるような低予算作品、それぞれ似たような性的表現がされていても、社会における位置づけは変わってくる*3。しかし9割の屑と見なされる作品*4があろうとも、高く評価されて社会に居場所を確保する作品が多ければ、ジャンル全体は居場所をえられる。ジャンル全体に居場所があれば、俗悪視される作品が出る土壌も保たれる。
furukatsu氏が言及した『KANON』のように、一般向けゲーム化されたり、一般向けTVアニメ化*5されたりすることが続いて、社会的な評価をえられていけばエロゲーも簡単には排除できなくなるだろう。


ただし、最初から一般向けゲームとして作ればいいというような、見当違いな意見も出される危険はある。エロマンガ紹介をめぐって、永山氏が枡野氏へ指摘したような問題もある。評価しやすい作品を残すようにしては、評価されにくい方向性の作品が切り捨てられかねない。
では、ジャンル全体を救いたいなら「表現の自由」だけで戦うしかないのか。
……しかし法規制と違って、自主規制に対して「表現の自由」という主張はそのままでは通用できない。そして法規制ほどの強い拘束力がない分、自主規制は制限が厳しくなりがちだし、かけやすい。業界全体の自主規制は、制作者へ現実に強い拘束力を発揮する。話題になっている陵辱ゲームも、今のところ自主規制が先に厳しくなっており、実際に法規制が厳しくなるかは不明瞭。ここで「表現の自由」を唯一絶対の線引きに用いてしまえば、自主規制にあらがうことが難しくなり、作品内容を論じて擁護するより表現がせばまるのが現実ではないだろうか。
はてな

倫理基準にしろ法にしろ、2chのスレルールですら、客観的な規範は、原理的に言って、絶対に批評よりも貧しいものなんだ。

批評はさまざまな意見をOR演算で膨らませることが出来る。食い違いも重複もまとめて面倒を見ることが出来る。どんどん豊かになる。

でも客観的規範はそうはいかない。誰もがブレずにひとつの結論を得られる必要があるのだから、これはAND演算になるのだ。共通しない部分は削り落とされる。内容はひたすら貧しくなっていく。

だからこそ、後に作られる「規範」を広げるためにも、批評*6の時点で可能な限り多様性を確保するべきだろう。

*1:マンガ家。少女性愛作品を主に描いている。短編『アンフェール藝術院』のオチがエロマンガらしい作りで忘れがたい。少女性愛の罪深さについての自覚がわかりやすい作風なことが、朝日新聞で紹介できた一因だろう。

*2:http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20090618/1245374062

*3:id:y_arim氏が書いたような、親子向け教育番組を性的目的で受容する例も同様だ。性的な受容より他に、親と子のための教育や、子供にとっての娯楽といった目的が、明らかに多くの視聴者層を占めている。社会的立場は作品自体ではなく、作品から社会が読み取るもので決まる。

*4:実際に低予算作品が屑であるかは別問題。

*5:そのまま社会に居場所をえた話とはいかないが、たとえば雑誌『アニメージュ』で杉井ギサブロー監督がTVアニメ『Air』を高評価していたことは、今でも印象に残っている。

*6:ここでは、一般的な批評の形態を取らない作品に対する反応全てをふくむ。