法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『宮崎駿の時代』久美薫著

映画『もののけ姫』をきっかけとしてジャパニーズ・アニメーション評論を始めたというライター*1が、映画『ルパン三世 カリオストロの城』以降の宮崎駿関連作品を主軸に、細部にわたって分析していく。
講義の形態を取っているが、結果として脇道が多すぎ、自画自賛的な表現も鼻につくので、さほど効果的とは感じられない。加えて、先行する研究や批評への敬意が感じられない表現や憶測も多い。
ただ、それを除けば楽しめる内容ではあった。


映画『ルパン三世 カリオストロの城』を取り上げた章では、作中舞台の位置関係を図示して場面ごとに当てはめ、位置関係を知らせたり誤魔化したりする技巧を論じている。作品解説として普通に楽しめる。ただし、自筆による舞台概念図が、パンフレットに掲載された公式全体図*2そのままであることに言及していないのは解せない。
様々な映画作品を時間単位で区切り、起承転結に当てはめていく作業も、物語構成を考える上で面白い方法論だ。しかしこれも、岡田斗司夫氏が先行して映画分析で同様の方法論を用いていたことに言及しない瑕疵がある*3。また、宮崎監督が実際に映画を制作するためABCDパートに区切って物語を構成している*4ことにもふれるべきだろう。
マンガ『風の谷のナウシカ』ではコマ同士の関係を、2章にわたって、映画のカット技法を参考にしながら場面切り換え技法を語っている。多くのマンガ評論が用いている視線誘導とは異なる観点で、極めて興味深い。伊藤剛テヅカ・イズ・デッド』を援用しながらも、他のマンガ作品も具体的に引いて論じており、比較的に説得力が高い。内容も序盤の立ち上がりを除いては絶賛に近く、最も読んでいて楽しい章でもある。


一方、評価が低い映画『もののけ姫』の章などでは、主張に奇妙なねじれが見受けられる。
主人公の行動動機が不可解という当時からよく批判された欠点を指摘した後、世界観*5も不明瞭と評する。

 でねえ、『ナウシカ』と『もののけ姫』を比較すると、後者のほうが世界観が緩いんです。ちょんまげ姿の百姓が出てくる一方でなんかでっかい猪とか狼とか、時代劇なのかスペースオペラなのかわけわかんない(笑)。『ナウシカ』ってそれこそまるごと異世界だったけども、『もののけ』は中世日本で、そのくせゴジラみたいな怪獣が出てきたりと、中途半端な印象でした。デイダラボッチって言うんですかあれ。一つ一つは神話とか言い伝えに出てくるらしいんだけど、黄泉の国が舞台ではなくて、生きた人間が暮らす世界にああいう妖怪ともSF怪獣ともつかない存在を押し込んでくるのは、ねえ。「時代劇がやりたいのかSFをやりたいのか、お前どっちやねん」と思いませんでしたか皆さん(笑)。

宇宙空間に出ないスペースオペラという発想からして意味不明。おそらく著者はスペースオペラやSFというものを根本的に勘違いしている。
妖怪が黄泉の国に存在するという発想も不思議だ。どちらかといえば、人間が住んでいる近くに想像されてこそ「妖怪」だろう。それこそトトロのようなアニミズム的存在だ。一般的にも『ゲゲゲの鬼太郎』等で広まっている感覚だと思う。映画『もののけ姫』が諸星大二郎マンガの影響下にあることも有名ではないだろうか。
また、タタラ村が統率のとれた戦闘を行っていることへの批判もおかしい*6

宮崎は『もののけ』制作当時、黒沢明の『七人の侍』の百姓描写を批判していました。当時の百姓はもっと戦闘的で、戦いとなれば刀を手に自分達から出撃していったんだ、と。でもねえ、『もののけ』で描かれていたような近代的な集団戦闘までは行っていなかったんじゃないかなあ。

しかし室町時代から戦国時代にかけて農民と侍が未分化であったこと、百姓は農民に限らず様々な職種を内包していたことは立派な学説として存在する。その学説で有名な網野善彦と宮崎監督は『もののけ姫』を題にして対談もしている。知らないのだろうか……と思ったら、しばらく後で宮崎発言を要約した際に網野史観へ言及する*7

映画の中の百姓たちが武装集団でもあるっていう設定は、実は元ネタは網野学説です。ちなみにマルクスにかぶれると、決まって百姓を美化するんですよ。「黒沢の『七人の侍』での百姓の描写は歴史的にみても正しくない!」ってわけです。学術的にはそうなのかもしれないけど。

学術的に正しければ、『もののけ姫』でタタラ村が武装していることに問題はないだろう。せいぜい著者の百姓に対する先入観から現実感がなかったという程度。
さらに、タタラ村が武装していることの批判に対する反論を想定し、注記しているのだが*8、映画をよく見ていないとしか思えない。

「あれは石火矢衆といって、百姓ではなくジコ坊の配下だよ」といったツッコミは却下する。映画パンフレットや公式ガイドブックに目を通さなければ分からないような設定なぞ、後出しジャンケンと同じだから。

しかし、たとえ石火矢衆の設定が映画だけでは不明瞭としても、きちんと映画を見ればタタラ村とは異なる命令系統で動いていることは明らかだ。神々をおびきよせる作戦では村人を囮にして罠をしかけるし、終盤ではアシタカを攻撃しようとしてタタラ村の人々と対立する。石火矢衆が特別な立場にあることは映画を見るだけで明瞭だ。


他にも先行する研究や批評と切断されている記述が多い。
映画『太陽の王子 ホルスの大冒険』では、物語が劇画ちっくと評して、『カムイ伝』の影響がまるわかりとしながら、ロシア映画雪の女王』からの影響に言及しない*9
映画『千と千尋の神隠し』に対しては、カオナシは主人公のケツを叩くために脇役が駆り出されただけと指摘する*10。加えて、クメールルージュに代表される「共産主義の究極」*11を銭湯にて働く千尋で描いたと評する。前者はイメージボード時に固有名詞がつけられていないという根拠はあるものの、暗喩を読もうとする評論を全てこじつけと切り捨てる。後者は監督インタビュー発言を否定するという無茶で成立させている。カオナシが買春を暗喩し、湯屋ソープランドを直喩していることへの言及はない。いやそもそも、映画を完成作品のみで論じようとして千尋が記憶喪失した裏設定を切り捨てながら、画面に堂々と表れているカオナシも切り捨ててしまっている時点で二重基準だろう。


著者は映画『もののけ姫』以降の宮崎監督高評価に違和感を持ったことでアニメ評論を始めたようだが、そもそもアニメ雑誌や映画雑誌では宮崎作品への批判は少なくない。それを知る機会が充分にありながら*12、あたかも自分だけが宮崎作品を批判的に分析できるかのようにふるまっている。『もののけ姫』以降の大ヒットで、批判しようとしても興行がいいことで口ごもらざるをえないと主張する。その理由として「結局ね、技術的視点からアニメーション映画を論じられる批評家がろくにいないんですよ」*13とまでいう。しかし実際には『もののけ姫』が公開された年には映画『新世紀エヴァンゲリオンAir/まごころを君に』が公開され、夏休みに前面対決となっていた。その意味では著者がいうようにアニメファンの間でもイベント性があったわけだが、同時に宮崎作品と対立する層がアニメファンに存在したことも示す。当然、アニメ雑誌などでは宮崎作品批判も一定以上の存在感があった*14
著者は、以前に出した『宮崎駿の仕事』がネットで批判されていることを何度か書いている。その原因は著者がいうような宮崎駿信仰ばかりでなく、口調にも問題があったのではないかと想像するのだが。

*1:今は米国アニメ情報誌のスタッフという。

*2:BSアニメ夜話 Vol.1 ルパン三世 カリオストロの城』にも掲載されている。

*3:似た方法論を用いていた書籍とは違ったと思うが、岡田斗司夫オタク学入門』を91頁で言及しており、知らないとは考えにくい。

*4:BSアニメ夜話 Vol.1 ルパン三世 カリオストロの城』127頁。テレビシリーズの経験を活かして4本分を制作するスタンスで臨んだ。以降の宮崎作品全てが同じ方法論によっている。

*5:この263頁で、著者は「世界観」という言葉が異世界を作り上げる作品が流行って広まったと記述している。つまり「世界観」と「世界設定」を勘違いしているのだろう。

*6:264頁。以下、他の引用もふくめて注記番号を全て省略。

*7:274頁。

*8:265頁。

*9:54頁。

*10:291頁

*11:295頁。

*12:事実、唐沢俊一氏による『ルパン三世 カリオストロの城』批判や、押井守監督による宮崎作品批判がいくばくか言及されている。

*13:25頁。

*14:アニメ雑誌は基本的にアニメ広報グラビア雑誌にすぎないが、宮崎作品は徳間書店が持っていたこともあって、『アニメージュ』が独占的に特集していた分、他のアニメ雑誌ではさほど言及されていない。特に『ニュータイプ』は角川の繋がりで『新世紀エヴァンゲリオン』に注力していた。