法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

石森章太郎のパターナリズムと虚構におけるミソジニーとを少しだけ

佐武と市捕物控』第5話と第6話に共通する描写で、女性の手を染める悪事が、どれも黒幕の指示で嫌々ながら行っていることが印象に残っている。
女性は自ら悪事に手を染めるだけの自立性もなく、ただ男に命じられるまま犯罪を行い、救われるのも男の助けによってという、パターナリズム*1にのっとった人物描写といえるだろう。


もともと石森章太郎のヒロイン造型には亡き姉が投影されているといわれており、石森作品は同時代で見ても女性像の美化が激しく、心底からの悪女というものが数少ない。主に女性エージェント同士が戦うマンガ『サイボーグ009ノ1』で幾人か登場した程度だろうか。
もちろんアニメ版の『佐武と市捕物控』が石森作品と同様であると即断はできない。石森が所属していたスタジオゼロが石森原作で企画を立てたアニメとはいえ、アニメ独自の物語も多く、原作者の女性観がそのまま投影されていると断言することは難しい。
正直にいえば、『佐武と市捕物控』を見ているのは最近に無料配信されたためであって序盤しか目を通しておらず、石森作品や関連書籍を熱心に読んでいるわけではない。くわしい人から見れば上に書いた感想は的外れかもしれない。


何にしても、この2話だけではなく、第10話まで見た限り、パターナリズムな女性像はアニメ『佐武と市捕物控』で一貫した問題と感じた。
いや、パターナリズムな描写を行っては道義的に良くないという話ではない。フィクションであれば、どれほど前時代で無分別な描写も許されたいと思っている。ある程度まで作り手の自覚が見られたり、時代性を念頭に置けば、割り切って楽しめるつもりだ。
問題と思うのは、人物描写が類型で固まっているために、先の展開が容易に見当ついてしまったことだ。どんでん返しが同じように連続する展開でも、第7話より第3話の先が見えやすかったのは、人物がより類型化されていたからだと思う。
捕物帳を一種のミステリやサスペンスとして楽しんでいる者としては、ありきたりな人物描写から導入することはいいのだが、類型のまま物語が終わってはつまらない。


こういう場合、あえていえばミソジニー*2丸出しの悪女描写をしてもいい。
パターナリズムミソジニー……どちらにしても類型的な女性観だが、選択肢が二つになればそれだけ真相はわかりにくくなる。作品の人間観は問われるとしても、サスペンスとしては面白味が増す。いずれアニメの『佐武と市捕物控』でもそういう物語があるかもしれない。
もちろん、パターナリズムミソジニーに見せかけ、それをさらにひっくり返し、見ている者の観念をゆるがしてくれるミステリが最高と考える。


ところで、ミソジニーな……笑顔の裏に畏怖すら感じさせる闇をかかえ、その魅力で周囲を篭絡しつつ密やかに陰謀をめぐらす……犯人像は、先日に下記エントリで町山氏からコメントで指摘をいただいた『氷の微笑』でも描かれている。
ある作品描写が差別だと糾弾された時、ある映画監督がとった行動 - 法華狼の日記
念のため、『氷の微笑』で描かれたのはミソジニーそのままではなく、そういう先入観通りの犯人か否かで判断が揺れるサスペンスだった……映画も原作も細部を忘れてしまったため、明確な判断はできないが。少なくとも映画は見直してみようと思う。
少しネットを検索してみると、映画『エイリアン3』を題材にした内田樹氏の論を引いてミソジニーを語っている下記エントリでも、部分的に『氷の微笑』へのフェミニズム運動の関わりが言及されていた。
「ミソジニー」といかに付き合うか - ohnosakiko’s blog
それにしても、映画も小説も目を通しておきながら、フェミニズム運動との関わりをほぼ忘れていた自分に、逆に驚く。興味が薄かった時期に見ても印象に残らないのは一般的な心理とはいえ……

*1:簡単に訳すと、伝統的家父長制。

*2:女性性への嫌悪。