法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『映画ドラえもん のび太と緑の巨人伝』

藤子・F・不二雄原作短編『ドラえもん』の「さよならキー坊」を、映画化にあたって物語をふくらませた作品。TV放映版を視聴。
サイドカットされたモニターで見たためか映像の迫力が薄れ、歪な展開の異様な意外性も消え、昨年に映画館で観た印象*1より評価が低くなってしまった。


素晴らしく動く作画、印象的な構図、原作の引用*2、念入りな芝居……あたかも映像表現を優先して思いつくまま並べたかのようで、物語の基礎となる設定は後出しで語られるだけ、登場人物の感情も繋がっていない。
TVで初めて視聴した人は、多くの場面がカットされているため説明不足なのだろうと感じたのではないかと思うが、同じ渡辺歩監督『映画ドラえもん のび太の恐竜2006』とは異なり、ほとんどが劇場放映版でも描写不足だった。


人物の感情について。
一例として、はしゃいだキー坊とのび太がヘリコプターのように空へ飛び上がる場面。のび太は驚かず、タケコプターを用意しているから大丈夫というが、持ってくることを忘れており、落下してしまってドラえもんに助けられ、「ドジ、マヌケ、オッチョコチョイ」と叱られる。
しかし、キー坊が空を飛ぶのはこの場面が初めてだ。この映画で豊かな感情を見せるのび太が、飛んでいることに気づいて驚いたり感動したりしないのは不自然。驚かないのなら、せめてキー坊へ保護者ぶる描写がほしい。いや、感情的な反応は人それぞれだとしても、空へ飛び上がるという予期できない出来事に遭遇して「オッチョコチョイ」と叱られるのは理不尽すぎる。
ここは別の場面で、キー坊がはしゃいで同様に空へ飛び上がり、落下してひどい目にあう前振りを入れれば自然だったろう。舞台が山なのだから、空へ飛び上がるのではなく、はしゃいで崖から落ちるような描写でも良かった。


設定の説明について。
たとえば、中盤で初めて出てくる「伝説の長老」関連が唐突かつ説明くさい。それまで映像ではもちろん台詞でさえ全く語られなかった「伝説」の議論をされても、感情移入のしようがない。
直前の祭りで昔話を語った時、なぜ「長老」の話をしなかったのか。説明っぽさを嫌うのなら、『恐竜2006』がアバンタイトルで恐竜ハンターの描写を入れたように、アバンタイトルで伝説を語っても良かっただろう*3


長老関連の描写は、他の場面も未整理だ。
映画の終盤、全ての戦闘が終わった後、真実を教えるためだけに緑の星の底を見せる場面など、その力があれば地球が危機に陥ることもなかったのではないかと思った*4
そういう神のような存在が傍観気味に協力していたわけで、二度目の視聴では、のび太たちのピンチで手に汗を握ることができなかった。長老の気が向けば、簡単に助かるのではないかと思ってしまう。
のび太たちの努力が無駄にならないよう、長老の残された能力は、緑の星と地球を繋げる移動装置を提供するだけと明示してほしかった。真実を明かす描写をしたいなら、古代文明の移動装置を提供するため地底を見せてしまう、といった展開にすればどうだったろうか。戦いが終わった後に陰鬱な真相を暴露されたのでは後味が悪い*5。真実を知ってなお、長老の言葉を聞いて前進するのび太たちを見たかった。


終盤は、仲間の活躍が弱いことも欠点。
特に、地球に戻ってから敵に立ち向かうまでの展開で、ジャイアンスネ夫しずちゃんドラえもん、それぞれの存在感が薄い。
ドラえもんは秘密道具を出しただけ。スネ夫は息を吹き込むという形でがんばったが、他のキャラクターで代替可能。ジャイアンは敵が攻撃に使った果実を食べて「うめえ!」と喜ぶギャグがある程度*6しずちゃんにいたっては何一つしない。
敵の攻撃を防いだり、障害物を破壊したり、囮になったり、のび太を主人公にしつつも皆がせいいっぱいの力を出す展開は無数に考えられたはず。


のび太とリーレがキー坊へ水をやる描写も、それ単体では好印象だが、経緯に疑問が多い。
秘密道具をできるだけ使わないという渡辺歩監督の問題意識は素晴らしい。しかし、のび太がキー坊のもとまで行く手段が、緑の巨人に飲み込まれ管で流されるという描写では、秘密道具を使うより安易、かつ受け身ではないだろうか。キー坊が意識を保っている可能性を示すにしても、雷がのび太たちを避けるという描写*7が直前にあるのだから、それで充分だ。
ここは、戦闘で表層が破壊されて露出した管へ、のび太が自ら飛び込むような展開にはできなかったのか。のび太が呼吸できないため、植物型宇宙人のリーレが追いかけて酸素を補給してあげるとか*8、二人でキー坊のもとへ向かう必然性も出てくる。


キー坊が原作通りに成長して和解を呼びかける結末も、少しばかり唐突に感じた。
原作短編のキー坊は、はしゃいだりこそすれ高速で走るような能力はない。新聞を読んだりして知性を印象づける場面から、さほど間を置かず言葉をしゃべったので、自然な成長に感じた。和解を呼びかけることが問題解決に直結していたので、展開自体に爽快感があった。
対する映画のキー坊は、イタズラ好きな性格で、終盤も知恵ではなく体力で敵から逃げていたくらいで、結末の雄弁な演説が不自然に感じる。映画のキャラクターからすると、年齢相応に語彙が少なく、しかし力強さを感じさせる演説をするべきではなかっただろうか。
何より、長老、リーレ、キー坊、同じ趣旨の長い演説が三連続して、演説内容に文句のつけようがないからこそ、押しつけがましく感じる。先述したように長老の演説は前倒しし、自分の言葉で語るリーレの演説に、キー坊の幼い正論を重ねれば、同じ趣旨でも説教臭さは軽減したと思う。


ふと、冗談半分で思う。この映画は、上映時間3時間ほどの傑作映画を編集して描写不足になったのではないか、と。
脚本では説明していたのに、尺を調整するため削除されたのではないか。演出に力が入るあまり、制作に余裕がなくなって未完成状態なのではないか。実際、初期の予告編に存在しながら、映画に使用されていない映像が多い。
長々と批判ばかりしてきたが、断片は本当に素晴らしい。昨年、予告を見ていた段階では傑作の予感がしていたくらいだ*9
山奥にある廃棄物の山。雨に濡れる神社。あちこちに畑を残す街。独自ルールで遊ぶ子供達。駐車場という中途半端な広さの空間がある住宅地……現実の郊外では珍しくない風景が、克明に描写されるだけで独特な空気を作り上げる。
アニメオリジナルのキャラクターも原作デザインと比べて違和感が少なく、芸能人が声を担当したわりには演技も悪くない。
終盤の戦闘にいたっては、時間こそ短いが、マニア向けアニメでも見ることは難しい大規模なもの。激しく行き交う雷と光弾。のび太とリーレが主張をぶつけあう背後で、着弾の煙が立ち昇り光弾が切り裂く場面、その空間の奥行きと広がり。
何より、号泣する周囲と違って、のび太一人だけ涙を見せない結末は、主人公らしい成長を感じる。近年の映画はのび太の号泣が印象的なだけに、映えて見えた。
欠点は多いが、忘れたくない、次を期待したくなる作品ではあった。

*1:http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20080403/1207233444

*2:一例として、地球へ戻ってきたドラえもんが「壊れておわびする」と叫んで自分をハンマーで殴り壊そうとする場面は、『映画ドラえもん のび太と海底鬼岩城』からの引用。ドラえもんに全く責任がない状態なので、唐突な責任感を発揮するというギャグでしかない。引用元ではドラえもんにも多少の責任はあった。

*3:環境破壊を憂えう植物型宇宙人は、中盤でも描写されているのでアバンタイトルに入れなくても不都合はないはず。

*4:真実を教えてからの説教も、「愛」を直裁的な言葉で語ったのは、本当にやめてほしかった。

*5:緑の星を動かしたせいでのび太たちが濁流に飲みこまれたかのように見えてしまっていることも、後味の悪い一因。

*6:気球全体が攻撃されているのに、一つを食べただけでは防御にならない。

*7:偶然に避けた可能性があるからこそ、のび太がキー坊へかける信頼を強いものと感じさせる、絶妙な描写。

*8:植物の生み出す酸素で動物が生きていることは、原作通りの説明場面が中盤にあるから、就学前の幼い観客でも理解できるだろう。

*9:宣伝に対する感想はこちら。http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20080309/1205199184