この回、取り上げた作品『男組』を素直に誉めないというのはしかたないと思う。
番組で指摘されたように、少年マンガと青年マンガが分離する過渡期の作品だ。学生達がバカ格闘を繰り広げながら日本を良くしよう、暴力で権力に立ち向かおうとする姿を素直に描くのは、今になると笑えてしまう。プラモデルで世界征服を目指すようなホビーマンガに似た味わいすらある。中断前後で絵柄や作風が変わったことも作品の完成度から見れば欠点だろう。
池上遼一のコラージュ的な画面作り、流麗な線とポージングが突出して巧い、といった指摘はさすがと思った。
しかし、今回の評者達は雁屋哲を評するにあたって、重要なことを抜かしていたと思う。思想の表出した描写を文脈にそって評することができず、「ファッション」「闇鍋」「マーケティング」といったワードで切り捨ててしまっていた。
夏目房之介氏によるマンガ技法解説「夏目の目」において、最終回がドスを持った任侠映画そのものと指摘され、他の場面と合わせて「学生運動」「反体制」「仁侠映画」等々の「闇鍋」と評された。……しかし、「学生運動」と「反体制」は大きく重なる言葉だろう。「仁侠映画」にしても、現在から見て感じる右翼的な受容のみならず、新左翼からの支持も存在した*1。
少年マンガで敵が肉体を持った嚆矢という指摘も、学生運動の対立した相手が体育会系の学生や右翼という現実の暴力だったことと繋がる話かもしれない。
連載よりずっと後に『男組』を読んだ時、学生運動を横目に大学を卒業した左翼の描いた物語と感じた。同じく学生運動に乗り遅れた左派として納得できる気分が多々あった……そういった学生運動の残り香、気分みたいなところを全て避け、無難にマンガ技術論で終始してしまったのが残念。
歴史や思想との相互関係を*2、きちんと作中描写に対応させて説明できる*3人はいないだろうか。たとえば手塚治虫の未完遺作『ネオ・ファウスト』や短編マンガ『電話』など、学生運動について知らなければ、主人公が何と対立しているのかすらマクロでもミクロでも理解できない。