法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『反日マンガの世界』晋遊舎の基礎知識

反日マンガの世界』には「反日マンガを読むための基礎知識」という見開きコラムがある*1。無記名だが、おそらく編集部によるものだろう。
サヨク」「週刊金曜日」「竹島問題」など、様々な言葉が並んでいるが、マンガの読解に役立てそうなものはない。もちろん、言葉の解説はどれも独自性があふれすぎている。


まず「強制連行」の説明はこうだ。

文字通りの意味としては、本人の意思とは無関係に連れ去ること。反日的な文脈では、第二次世界大戦中に日本が労働力確保のために中国や朝鮮から強制的に人々を連れ去ったことを意味することが多い。最もひどい説では、現在日本に住む在日朝鮮人の祖先は強制連行によって無理矢理日本に連れて来られた人々である、ということになっている。だが実際には、本人たちの意思で日本への移住を希望していた場合がほとんどで、いわゆる強制の事実は確認されていない。彼らはただの出稼ぎ労働者だったのである。

全ての在日朝鮮人が強制連行された子孫ということはさすがに伝説だが、強制連行そのものについては歴史学的に通説として固まっているし、伝説になった経緯そのものも研究対象となっている*2。強制連行されていた事実は歴史学でも日本政府でも司法でも*3確認しているのであって、「確認されていない」という言葉は編集者に確認する能力がなかっただけだ。
さらに以前、朝鮮半島における選挙権の有無を話題にしたことがあった*4朝鮮半島に住んでいれば一律選挙権がなく、日本に住めば朝鮮人でも選挙権が持てる*5、だから差別ではないという珍説だ。移住しなければ選挙権すら持てないような状況で、どこまで「本人たちの意思」といえるだろうか。また、出稼ぎという移住動機も、被侵略国にある経済格差の問題と重なってくる。
ちなみにナチスドイツの強制労働にしても、全てが暴力をともなう強制連行ではなかった*6。形式的に暴力を使っていないとか、明確な言葉で命令していないからといって、本人の自由な意思による行動とは限らない。


従軍慰安婦」はこう説明されている。

旧日本軍向けの慰安所で売春に従事していた婦女の総称。当時は軍人に対する売春に従事した婦女のことは「慰安婦」と呼ばれていた。「従軍慰安婦」という呼称は、一九七三年に出版された千田夏光著『従軍慰安婦』(双葉社)で初めて用いられた。軍人用の売春施設そのものは世界各国に存在するため、そこに道義上の問題は存在しない。また、そこで働く女性たちが「軍による強制」で無理矢理働かされていた、という説も一時期かなり根強かったが、現在では完全に否定され、「従軍慰安婦」という単語は歴史教科書からも削除されている。

強制的に売春されていたことが主に問題視されている言葉な以上、「売春に従事」という説明から始まるのは願望でしかない。
また、従軍慰安婦が「慰安婦」とだけ呼ばれていたことは誤りではないが、しょせん体裁をとりつくろった呼称であり、たとえば旧日本軍少尉の小野田寛郎氏は「慰安所」と聞いて「なるほど作戦から帰った兵士には慰安が必要だろう、小遣い銭もないだろうから無料で餅・饅頭・うどん他がサービスされるのだろうと早合点していた」と証言している*7。当時の現場で使われた隠語は「ピイ」「ピー」だったようで、小野田証言以外にも、吉見義明著『従軍慰安婦』26頁に従軍日誌から引用されている。
さらに、千田夏光による著作は名称を広げただけであって、「従軍慰安婦」という言葉の確認はもう少し早い*8
「世界各国に存在する」から「道義上の問題は存在しない」という厚顔無恥な主張にいたっては、ありきたりですらある。吉見義明著『従軍慰安婦』202頁において「他人が悪いことをやったから自分の悪行も許されるという論法はなりたたない」と、10年以上も前に批判されている。また、慰安所で存在した未成年の売春や虚言による徴集は、当時の国際法や国内法にも違反しており、「道義」以前の問題だ。
性的行為を強要されていた事例も、多数の証言が積み上げられている。軍による強制がなかったという主張こそ、「現在では完全に否定され」ている。もちろん白馬事件のように、狭義の暴力的な連行で強制的に売春されたと確認されている例もある。
……冗談抜きに、一行ごとに指摘してしまった。


当然のように「南京大虐殺」も上がっている。

日中戦争初期の一九三七(昭和十二)年十二月十三日の南京陥落の翌日から六週間の間に、南京市民や中国軍兵士の捕虜を含む約三十万人が殺害されたとされる事件。事実の存否や規模などをめぐって現在でも国内外で議論が続いている。被害者の人数一つ取っても、数千人とする説から数十万人にのぼるとする説まで諸説ある。また、虐殺事件の存在自体を否定する説も根強い。

範囲を書いていないのはいいが、期間を六週間に限定しているのは誤解を招くだろう。
そして国内はもちろん、国外でも事件の存否をめぐる議論は見られない。南京大虐殺は欧米の資料も多数存在し、連合国による東京裁判でも存在が認められたことを知らないのだろうか。現在でも、いくつもの映画が制作されている。
もちろん国内でも、まともな学問としては「事実の存否」を今さら議論はしていないし、「虐殺事件の存在自体を否定する説」はただの笑えないトンデモだ*9
ついでに、原爆による被害者数も議論が今なお続いていることを注意しておこう*10。事実の存否を議論することと、規模を議論することは全く異なる次元の話だ。


どのような誤った知識から「反日マンガ」と認定しているかよくわかる、ある意味で素晴らしい「基礎知識」だった。
どこから引いてきた見解なのか知りたいところだが、参考文献は書かれていない。

*1:46〜47頁。

*2:http://www.sumquick.com/tonomura/ronbun/ronbun01.html

*3:最近の判決例http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20071108/1194565182

*4:http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20071228/1198901822

*5:ここまでは、ある程度まで正しい。

*6:それに言及したドキュメンタリーの感想はこちら。http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20071011/1192056261

*7:『正論』に載った「私が見た従軍慰安婦の正体」という手記。http://www4.airnet.ne.jp/kawamura/enigma/2005/2005-01-16-onoda_ianhunoshoutai.html

*8:従軍慰安婦問題における秦郁彦教授の仕事では珍しく良い。

*9:南京大虐殺否定論を批判する、と学界会長の山本弘氏によるページすらある。http://homepage3.nifty.com/hirorin/nankin00.htm

*10:後遺症をめぐる議論についてのドキュメンタリー番組の感想。http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20080807/1218150434