法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『反日マンガの世界』唐沢俊一の手抜きぶり

晋遊舎ムック『反日マンガの世界』執筆陣は、全般的にマンガを評する能力が足りないよう感じられる。
マンガ評論家として広く仕事をしている唐沢俊一氏にしても、他に比べればマンガ批評らしくしているとはいえ、手抜きぶりが目に余る。いや、他がマンガ批評を中心とする職業ライターではないらしいところからすると、最も駄目とすらいえるかもしれない。


唐沢氏はまず、倉科遼ナカタニD.の『DAWN−陽はまた昇る−』を評する。
以前に読んだ時の記憶だが、他に取り上げられている「反日マンガ」の多くと異なり、時事問題を取り入れつつも明らかに架空の物語だ。虚構という体裁であれば、たとえどのような反社会的な内容であっても、個人や宗教を無分別に攻撃したりしない限り、現実の問題と並べて批判することなどできないはず。
そこで唐沢氏はアクロバティックな内容紹介をする*1

連載していた期間がちょうど、小泉純一郎首相と竹中平蔵総務大臣の就任期間であったこともあり、このコンビを非常にわかりやすい形でアメリカべったりの悪役にし(小泉純一郎首相は大城首相、竹中大臣は高木金融担当大臣と名前を変えられて、特に高木大臣は妖怪のような凄まじい悪相に描かれている)、それに挑戦していく、ウォール街の伝説と言われた主人公・矢作達彦〜彼は、かつてウォール街の風雲児として株を操作し、母国・日本の経済を破綻させた、その贖罪として、アメリカ経済の支配から日本を建て直そうと計画している〜の姿をカッコよく描く作品であった。

まず文章が長すぎる。しかも「(」と「〜」、二種類の注記方法を用いているため、やたら読みにくい。推敲していないのか、編集が仕事をしていないのか、それともその両方なのか。
そして重要なのが、『DAWN−陽はまた昇る−』に一般人の具体名は出ていないところ。あくまでモデルは公人、しかも名前や顔を変えているとなれば、あくまでフィクションとして読み、批判しなければならない。形式としては、まずマンガキャラクターを紹介してから、モデルと推測される公人へ言及するべきだ。
内容紹介した後に批評を始めるわけだが、まず唐沢氏は読者の評判を引く*2

そこで描かれる、あまりと言えばあまりに単純な、自民党(マンガの中では民自党)と、アメリカへの悪意が、作品の中で剥き出しになっていたため、2ちゃんねるなどの掲示板でもぼろくそだった。

2ちゃんねるの悪評を引いて批判の根拠とするマンガ批評……これが仮にも商業出版で載ったのだからすごい。手抜きするにしても、もう少し工夫のしようがあるはずだ。
続いて、小林よしのり作品への攻撃は作者にとって痛撃にならなかったと主張し、比較する*3

 しかし、この作品は、小林作品ほどの評価をついに得ることなく、単行本八巻の分量の連載期間を以て終了する。作品中で描かれた日本の状況と、現実の状況のあまりの乖離(つまり、作品中で示されていた政治的、経済的見通しのあまりのハズれっぷり)に、編集部が業を煮やして打ち切ったのだろう、という予想がなされている。

連載終了後の推測なのに「予想」と書くのは、日本語としておかしくはないか。一字違いの“妄想”が正しいだろう。
さておき、ここで唐沢氏は虚構と現実の区別がついていない。あくまでフィクションなのに、見通しが外れたことを理由に編集部が打ち切ったりするものだろうか。普通に考えれば、人気がなかったから長期連載できなかった*4、あるいは作者が限界を迎えた、といった理由だろうと思う。時事マンガである小林よしのり作品と*5フィクションを並べて評したため、唐沢氏の内部で混乱が起きたのだろうか。
何より、「予想がなされている」と出所不明な意見を引いてくるところがまた、手抜きとしか思えない。
そして唐沢氏は、デフォルメ演出が徹底的に失敗したと評し、現実では対立関係の色分けはできないと指摘する*6

現実の社会をあまりに露骨にモデルとして作品内に取り込んだことで、作品世界にひずみが生じてしまったのである。

仮面ライダーとショッカーのような単純な善悪二元の世界観は、現実をマンガがディフォルメしたものである。

この指摘そのものには、特に異論はない。
しかし、石森章太郎によるマンガ『仮面ライダー』は、最後に明かされたショッカーの正体が日本政府というどんでん返しだった*7。『反日マンガの世界』の粗雑な定義を用いれば、多くの作品がたやすく反日マンガになる、という話だ。
さて、唐沢氏がこの作品を評するにあたって、最も皮肉な主張をしているのが以下*8

しかし、主人公たちに味方する、正義の側のモデルとして彼らが設定したのが、こともあろうに民主党(作品内においては進歩党)と中国だった。

 現実の政界において、小泉の圧倒的な強さを支えていたのは、その大部分が、ライバルであるはずの民主党の、あまりの情けなさであった。菅、岡田、前原という党首たちの、次々の交代劇と、その原因になったトラブルは、国民から、この党に対する信頼を失わせるに十二分だった。そして、中国(と、それを筆頭におく韓国や北朝鮮という国々)の、経済的発展を基盤においた日本バッシングの嵐を見た国民が、これらの国々に対する嫌悪感を次第に高めていったのは、まさに、この作品の連載中の出来事である。

「中国(と、それを筆頭におく韓国や北朝鮮という国々)」などと、政治体制も国際社会での立場も異なる国々を乱暴にくくりあたりに唐沢氏の限界がある*9
民主党批判にいたっては、小泉政権による負の遺産で安倍政権は参院選大敗、続く福田政権も先日終わったことを思えば、『DAWN』は少し連載が早すぎただけかもしれない。
小泉政権の選挙大勝にいきどおる主人公を指し、唐沢氏は「要するに、自分たちの意見以外に国民が走ることをして、それを“政治の本質が分かっていない”と言っているだけであって、それがどれほど国民をバカにしていることか、一番分かっていないのは主人公ではないのかと思われる」*10などと、よくある言葉で評する。だが『反日マンガの世界』は初版2007年5月1日。この時すでに安倍政権は不祥事が連発され支持率も低下し、自民党支持者から他の有権者へ「政治の本質が分かっていない」という意味の発言がよくなされた。
もちろん、フィクションである『DAWN』に未来予測する義務がないように、唐沢氏は連載当時の読者を代弁していれば良い。しかし唐沢氏が『DAWN』を評した当時、時代を正確に予測していたのはどちらだろうか。


マンガ技術面から評した中沢啓治はだしのゲン』の項目は、さらにひどい。
ゲンの説明台詞を批判する文章がある*11

はだしのゲン』の主人公たちは、時としてその年齢や立場という、作品の中で与えられているキャラから言って不自然極まる長広舌をふるう。時には教育マンガのように、麻薬の恐ろしさをアヘン戦争から説き起こして説明したりする(七コマに及ぶ解説の上で、麻薬中毒になってしまったムスビというキャラを怒鳴りつける)。現在のマンガ技法からすると、あまりに不自然すぎると否定されてしかるべき説明ゼリフである。稚拙なマンガを読んでいて最もいらだつのは、こういう不自然な描写を読まされるときだ。たぶん、ふつうに『はだしのゲン』を読んだ(ある程度のマンガ読書歴がある)読者たちも、こういうところでは引っかかるはずである。

必ずしも「現在のマンガ」と思えない作品に対し「現在のマンガ技法」を求めるのは、悪くないとしよう。唐沢氏にとっては現在のマンガなのかもしれないし、時代をこえて受け入れられる技法が良いという考えは確かにある。
しかし、長い説明台詞が稚拙なのは確かだが、7コマ程度の説明台詞がそこまで不自然だろうか。たとえば『大長編ドラえもん のび太の魔界大冒険』冒頭において、魔法の歴史を出木杉か解説する場面もまた、のび太の問いが一度入るだけで、大きな7コマにわたる説明台詞が入る。不自然でなければ、いらだちもおぼえない。科学と魔法が同根と指摘する着眼点や、リアルな絵柄による絵物語風な語り口もあって、印象に残る名場面だ。
出木杉の場合は「作品の中で与えられているキャラ」に合っている、という反論があるかもしれない。しかし、実はゲンの長広舌もまた、キャラの性格を反映した描写なのだ。ゲンはたくましい自然児という印象を持たれているが、けして無知でも説明下手でもない。初期から読んでいけば、活動家だった父の薫陶を受ける場面が多く描写されていることに気づくはず。歴史について平均以上の知識を持っている、持てる環境だったことは確かだ。身近な問題を歴史に引き寄せて考えるようになった理由は作中で明示されている。
結論における主張は、さらに奇妙だ*12

しかしながら、その、創作した作品に対し、テーマがどうあれ、その技法が稚拙である、と指摘すること、そこで語られる主義主張が道理にかなったものではないと指摘することも、読む方の権利であると思っている。

これ自体は正論だと思う。しかし唐沢氏は、『はだしのゲン』の主義主張でどこが「道理にかなったものではない」のか具体的に指摘しない。
別項における鶴岡法斎氏との対談で『はだしのゲン』にふれた時も、「そういう自分の感覚はニュートラルなものなのか、と考え直す過程は必要になってくるはずなんだよ」*13といった、漠然と中庸を求める発言ばかりだ。
それどころか、唐沢氏と鶴岡氏は次のような発言までしている*14

唐:果たして本当に終戦直後の日本がこのような状況だったのか。終戦時にみんながこんなことを思っていたら、天皇制なんてあっという間に倒れてるはずなんですよ。それが倒れてないのはなぜなのか。
鶴:あの頃の日本国民が天皇を必要としたっていうことですよね。

被爆後のゲンが持っていた心情は、はたして作中で「みんながこんなことを思っていた」というように描かれていただろうか。
もちろん全く違う。むしろ、敗戦を境に平和主義へ鞍替えしながら国旗への礼は続けたりするような周囲の矛盾に怒っていた。唐沢氏の疑問も、鶴岡氏の主張も、どちらも作中で描かれ、批判されていることにすぎない。
前後するが、唐沢氏は結論でこうも評する*15

そして、そういう、反戦反核をテーマに謳った作品をも、画風や作者の描き癖という、マンガの根源のところで読み取って、内心でこれを“稚拙な政治的作品”と看破し、笑えぬテーマを笑い飛ばす不謹慎さこそ、本当の“民衆”のパワーなのではあるまいか。

唐沢氏は本当に『はだしのゲン』を読んでいるのだろうか。原爆後遺症で毛髪を失った頭へゲンがハゲを笑う歌を口ずさんだり*16進駐軍に対して真面目な批判ではなくイタズラでからかったり、「笑えぬテーマを笑い飛ばす不謹慎」な場面はそこここに見られる。
唐沢氏が『はだしのゲン』評の冒頭で引用して批判した「この作品は不条理な運命にあらがう民衆の記録なのだ」*17という呉智英氏の解説部分こそ、読解としては当を得ているだろう。
ゲンは、戦前も戦後も社会から疎外された存在だ。戦前に戦争を嫌った人々が、被爆した人々が、長く差別され続けてきた歴史の象徴なのだ。


かつて、唐沢氏の仕事で最も楽しめたものの一つが貸本マンガ紹介だった。
雑学知識の紹介や、書籍収集家の日常話なら、もっと上手い人、有名な人もいるだろう。しかし、マンガ史に残らないような奇妙な貸本マンガを紹介することを、その時期で思いつくと同時に、商業流通へ載せられたのは唐沢氏くらいだったと思う。
ところが、唐沢氏と鶴岡氏の対談では次のようなやりとりがある*18

唐:マンガを読んだことがない教育委員会とかその手の人間が、『はだしのゲン』を読んで「これはすばらしいマンガだ」とか言って、学校の教育に備え付けようとする。おいおい、このどぎつい絵を読まされなきゃいけない子供たちの気持ちになってみろよ、と。
鶴:こんな貸本の頃みたいな怖いマンガの絵は、子供に読ませちゃダメだと思うんですよ(笑)。
唐:教育で小さい頃から子供たちの思想を統一することに反対するなら、その逆である、こういうトラウマ教育をするのはどうなの、と言いたくなる。言ってることが正しいかどうかとかは関係ないよね。

「貸本の頃みたいな怖いマンガの絵は、子供に読ませちゃダメ」という意見に、なぜ唐沢氏は反論しないのか。かつて子供を楽しませた貸本マンガを発掘して広めたのは唐沢氏ではないか。
学校に備え付ける、学生へ自由に読ませることを「読まされなきゃいけない」「トラウマ教育」と考えることも奇妙だ。課題図書や授業に用いるのでない限り、読みたい者が手に取って読むだけだろう。個人的な例だが、子供のころ同級生が面白く読んでいた姿を記憶している。
唐沢氏や鶴岡氏は失念しているようだが、もともと『はだしのゲン』は教育向けに作られた漫画ではない。第二部こそ革新向け雑誌に掲載されていたが、第一部は雑誌『週刊少年ジャンプ』に連載された人気作品であり、当時の読者に受け入れられていた。だから今さら鶴岡氏が子供に読ませてはならないと主張し、唐沢氏も同調する対談は、滑稽ですらある。


ネットの評価を無批判に引くようなマンガ読みとしての劣化、名前を出せる立場になりながら媒体に合わせる文章しか書けない無節操さ、そして過去の誇れる仕事に自ら泥を塗る物悲しさ……
はたして唐沢氏は過去の自分へ顔向けできる仕事をしているだろうか。

*1:25頁。

*2:26頁。

*3:27頁

*4:実際、娯楽作品として特別に出来がいいとは感じなかった。

*5:フィクションのマンガを描いていた時期の小林氏も批判されていたが、そのこと指しているわけではないだろう。

*6:30頁。

*7:ただし唐沢氏は、悪の方のモデルは『DAWN』も「何とか無難に移植できた」と評しており、特に矛盾というわけではない。

*8:それぞれ30頁と31頁。「彼ら」とは、マンガの作者たちのこと。

*9:確かに、そういう乱暴な認識をする人々はいるが、それを被害者意識や報道洪水からくる思い込みと唐沢氏は注釈できない。

*10:33頁

*11:94〜95頁。

*12:97頁

*13:72頁。

*14:72頁

*15:97頁。

*16:イジメの描写で使われた歌でもあるという二重性も評価したいところ。

*17:92頁、文庫版『はだしのゲン』巻末解説部分を孫引用。

*18:72頁。