法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

本村洋氏の記者会見は深いと思わなかったよ

拝聴するべき意見だろうとは思うが、基本的に問題提起が主だ。被害者遺族ではない第三者であれば、思いいたる人も主張できる人も少なくないだろう、と感じる。
そもそも主観的な感想の差違にすぎないが、なぜ「深い」という感想が多いのだろうかと首をかしげた。


この点でbuyobuyo氏は本村氏の主張変遷を引いており、その落差をもって「重い」と受け止めていた。
http://d.hatena.ne.jp/buyobuyo/20080423#p1

この本村氏の言葉は非常に重い。本村氏は、9年の間、葛藤し苦悩し憎悪し、そういった感情の中でこのような結論に至ったのであろう。

クリップしてある、初期の発言と比較してみよう。その差は歴然であると思う。

このエントリを見て、一つの可能性を思いついた。「深い」という感想は、あらかじめ想定した発言との落差に対して、生まれたのではないか。たとえば最近の本村氏の主張から一定の深さを感じていれば、別の感想をいだいたのではないか。
つまり「深い」と感じたということは、過去における本村氏の浅い発言*1が印象に残っていたか、あるいは自分が被害者遺族ならという仮定で推測していたか……前者はさておき*2、後者で「深い」と思った人は本村氏に自分の勝手な考えを押しつけていた反省はするべき、かもしれない。……いや、はっきりいおう、本村氏を盾に厳罰要求や弁護団批難を主張していた者が、いざ本村氏が単純な厳罰要求や弁護団批難を行わなかった時に「深い」とだけ反応しつつ、過去に行った主張を継続している姿には、はっきりと嫌悪感をいだく。


また、「深い」発言が常に上位にあるとは思わない。
落差が深さを感じさせるという仮説で思い出されるのが、被害者遺族でありながら死刑制度廃止を訴えている原田氏だ。その発言は、本村氏より深いと感じた。しかし、原田氏が本村氏より深い発言をしていると多くが感じたとしても、それで即座に本村氏の発言が誤りになるわけではないはずだ。発言に落差を感じさせるほど葛藤や思索をした人は尊敬に値すると思うが、その発言の正しさは別個に考えるべきだろう。
その葛藤や思索を社会が要求して*3、被害者に一層の負担をかけることを常態ともしたくない。あえて妥当性の有無は別としてでも、被害者は「浅い」反応が許されるのだ、と注意しておく。

*1:正直にいって、いくらなんでも武士道の解釈は奇妙すぎる。

*2:少なくとも本村氏の発言を多少なりとも追って、根拠としていたことにはなる。

*3:判例に拘束されない裁判を本村氏ら複数が主張している。それは個々の被害者が厳罰を要求したい時、本村氏と同じような活動を必要としないだろうか。