法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

有村治子議員と李と理の話

「靖国 YASUKUNI」と出演者の了承と「女性国際戦犯法廷」番組 - 玄倉川の岸辺
従軍慰安婦問題で「期待権」を自説の根拠とした人は、どれくらいいただろうか、とまず疑問に思った。重要視されていたのは主に政治家の圧力であり、NHKだけが責任を負うような判決に、あまり良い評価は聞かなかったと思う。


そもそも、国会議員と市民団体の政治力は対称なのだろうか。
安倍官房副長官と、VAWW-NETでは、どちらがNHKに圧力をかけられるか。李纓監督と、国会議員では、どちらが被写体に圧力をかけられるか。……こう問い直せば、必ずしも同一の基準にあるとはいえないと自明ではないだろうか。発言力を持つ者は、それ相応の責任も持たなければならないはずだ。
もちろん、刀匠の主張と李監督の主張が対立しており、どちらが正しいのかはわからない*1。しかし政治家と制作者に対して被写体*2が抗議した場合と、制作者に対して政治家と被写体が抗議した場合では、どうしても前者の被写体と後者の制作者に正当性を感じる。
念のため、前者の制作者や後者の被写体に正当性がないというわけではない。制作者と被写体のどちらにせよ、政治家が一方へ肩入れして「表現」を変えようとする安易さが問題なのだ。稲田議員による上映会要求からずっと指摘されてきた話だが、政治家は「表現の自由」を侵害しないか慎重に行動しなければならない。その発言力においても、政治家という職種自体においても。慎重さに欠けているどころか、積極的に表現の自由を抑圧しようとした議員が、被写体へ圧力や誘導*3をかけなかったなどと信頼することは難しい。李監督の立場から見れば、なおさらだろう。


刀匠が李監督に騙されたという認識を騒動の前から持っていても、稲田議員*4や有村議員のせいで信用されなくなったのではないか、と経過を見ていて思った。
つまるところ有村議員は、李下で冠を正しているのじゃないかという話。


もちろん、政治家が介入することを別とすれば、被写体と制作者の関係構築が重要なことも確かだ。
これだけこじれた状況で政治家が間に入っても解決を遅らせるだけだろうが、話し合いの場を設けたり、対面したくないなら代理人を置いたり、問題の被写体を外した形で映画を作り直したり*5、様々な方法を選ぶ余裕は残されている。


なお、今回の「陰謀論者」は、自分自身に対しても。とりいそぎ書いてはおくものの、まだ自説を確信できてはいない。
加えて、すでに同じ視点からArisan氏が慎重なエントリを続けて書いている。まとまりもよく、私のエントリよりこちらを読むべきかも……
違憲議員たちの自覚なき権力と暴力 - Arisanのノート

*1:一応、「どっちもどっち」ではないことに注意。

*2:ただし、同じ被写体といっても団体と個人では、問題対処能力や発言力が異なることも確実。その意味では刀匠は制作者に対して弱い立場にあったといえるし、もっと複雑な視点で見なくてはならないだろう。

*3:映画制作より社会的に重い面もある法廷で、無理筋な訴訟を煽られた例として、百人斬り裁判があったばかりだ。沖縄集団自決裁判も、扇動された訴訟という面がたぶんにある。

*4:弁護士として百人斬り裁判で遺族を誘導し、利用した当事者の一人。言動全てが信用できない。

*5:出演者死亡等の問題で作り直した映画もけして少なくない。ネットを見ていると、削除部分を活かして政治家が介入した経緯を説明する等の色々なアイデアがあって、それはそれでドキュメンタリー映画として面白そうと思った。