……と主張する人々が、光市母子殺害事件において懲戒請求を行った人々と重なっていることは、司法へ感情を持ち込むことの問題点を浮き彫りにした。回りまわって死刑廃止論に一定の説得力をもたらしたのだから、橋下弁護士こそ裁判を死刑廃止運動に利用したという陰謀論すら成り立つだろう。それほど稚拙さが専門家*1から指摘されている、ということである。
さておき、裁判に関連して以下の弁護士による死刑廃止論は考えさせられた*2。
なんとも不毛な光市母子殺害事件裁判 - なるしす日記
さて、被告人・弁護人がこのような対応を取ったことで、本村さんは深く傷つくことになりました。それはそうでしょう。こんな荒唐無稽とも言うべきストーリーを聞かされるのは、耐えられないことだと思います。
しかし、このような結果は、実は、本村さんが被告人に死刑を適用しようと奮闘した結果として、半ば起こるべくして起こったことなのです。何が何でも死刑を回避しようとする場合、こういう争い方をするしかないからで、被告人がそのようなタイプの人間であることは、被告人が拘置所から知人に宛てたあの手紙でもわかったはず。
本村さんが被告人を死刑にしようと努力すればするほど、被告人もそれを避けようとして、必死にトンデモ発言に及んでしまうのです。
たとえば、死刑を宣告しておいて、いったんその執行を猶予しておき、本当に反省した様子であればしばらく執行を見合わせる。もちろん、それで安心してまた態度がおかしくなることもあり得るから、そうなったら執行猶予を取り消す。そうやって、執行猶予がしばらく(たとえば 20年)続けば、そこで無期刑に減刑するとか、そんな制度があってもいいような気がします。
民事裁判的というか、あえて譲歩することで被告に罪を認めさせやすくする考え。冤罪事件に見られるような恭順姿勢による減刑や、司法取引と異なるのは、徹底的に追いつめる死刑を最初から排除する点だ。
死刑を求めることを不可能にすれば、被害者遺族にも無理な戦いを強いさせないという考えは一定の妥当性を感じる。確かに本村氏も、通常の弁護活動*3だけで精神的苦痛を感じている様子がある。そうして負担を強いさせているのは、死刑制度や裁判について遺族が自由に発言できる現状にあるともいえる。多分に逆説的だが。
刑事裁判は国家と被告との争いであり、遺族は証言する程度しかできない*4。ならば、やはり裁判と遺族支援は別と考えるべきだろう。……たとえ考えたくたくなくても、現代の司法制度から考えれば、必然的に別問題となる。口を出しても聞き入れてもらえないことで不満をおぼえるよりは、最初から聞き入れてもらえないと覚悟させれば、確かに遺族の負担は減るかもしれない。
逆に、厳罰による報復感情をあきらめさせ、刑事裁判と一般人の関係性を完全に断ち切れば、被害者遺族への負担を考えずに死刑制度を存続させられる、という考えもできる。もちろん、現在の厳罰を求める意見を読む限り、知らないところで死刑になっても“満足”はしないだろう。
死刑制度を維持すること、厳罰化の方向へ法律を変えること、遺族が裁判にかかわり発言すること、等々が遺族の負担にならないかどうか*5、遺族を持ち出して厳罰を要求する人々は常に考えておくべきだろう。
犯罪被害者や遺族は、それぞれ異なる考えを持つ、独立した個人だ。ある被害者の考えが、別の被害者に直接当てはまるなどと考えてはいけない*6。
譲歩の余地なく死刑で追いつめる結果、被告が恭順になって富山冤罪事件が起きたりもする。死刑という絶対的な刑罰が真犯人でも冤罪でも変わらない反応を引き出すなら、逆に裁判を真実から遠ざけてしまうかもしれない。
賛否に関わらず死刑が情緒的な反応を引き起こしてしまうなら、死刑制度は近代法に最初から合わないのかもしれない。