法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『綾辻行人と有栖川有栖のミステリ・ジョッキー(2)』

雑誌『メフィスト』で連載している対談企画をまとめたもの。テーマに合わせた短編やショートショートを選んで丸ごと掲載することで、ミステリでは難しい真相に言及したレビューがおこなえる。

綾辻行人と有栖川有栖のミステリ・ジョッキー(2)

綾辻行人と有栖川有栖のミステリ・ジョッキー(2)

とりあげられるのは必ずしも本格推理小説ばかりではないが、そうと知らず期待外れだった1巻目*1より、ずっと楽しみやすかった。1巻目のようなコンセプト優先にすぎないことで、そのものを楽しめる作品がそろっているところも良い。


まず第1章は花園大学で公開ライブ*2したものを再構成。ふたりの作者が自作を持ちより、どのように創作するかという方向から本格ミステリについて考える。
有栖川有栖『黒鳥亭殺人事件』は収録されていた短編集で既読のはずだが、まったく記憶に残っていなかった。古井戸の底で殺人犯が死体になった経緯が予想の範囲内すぎるし、少女への面倒見が真相そのものと密接ではないため、たぶん当時は好印象を持てなかったのだろう。あらためて読むと、父親の相談と並行した少女の面倒で伏線をおりこみつつ、不気味さを反転するように少女の無垢さを強調する技巧がさえている。作者が教えられて着想元になった「20の扉」の解答も意外で、事件とのコントラストを作りだしている。
綾辻行人『意外な犯人』も短編集で既読ながら、やはり記憶に残っていなかった。こちらもTVドラマ形式で演出された意外な犯人に先例があって、たぶん初読時から予想範囲内。TVドラマのために提供したシナリオを小説に再構成するための工夫も、説明されると面白いが、麻耶雄嵩作品で似た犯人当てを読んだので、驚くほどではない。
また、公開ライブだったため佳多山大地が司会として対談に口をはさみ、作者も想定していない説得力ある背景を深読みする局面も面白い。


2章はなぜか電車という共通モチーフ。
都筑道夫終電車は、必ず乗客がひとり消えるという駅の怪談を、ミステリ的に展開したもの。『ゲゲゲの鬼太郎』の「幽霊列車」っぽさから真相に見当をつけやすく、サスペンスとしてのサプライズはイマイチ。対談で指摘されているように、駅でひとりだけ降りたらどうなるかという捨てネタは良かったのだが。
ディーノ・ブッツァーティ『なにかが起こった』は、富裕層向けの超特急の視点で、何か異変が起きたことを知っていく。ゾンビ映画やディザスター映画の発端のように楽しんだし、その意味ではきわめてよくできている。異変が起きたことを乗客全員が気づきながら、誰も止めようとしないのがかえってリアルだ。しかしはたしてミステリなのかというと首をかしげるところ。


3章は最初に短いホラー作品で方向性を伝える。
H・P・ラヴクラフトアウトサイダーは、どういうジャンルのミステリを語るかを伝えるためのもの。タイトルから語り口調まで真相があからさまなので、もっとふさわしいジャンル作品があるのではないかと思った。真相がわかる結末の情景は綺麗だが、やはり珍しいものではない。
小松左京『新都市建設』は、ショートショートとしてありふれた内容ではあり、それほど強烈な意外性があるというものではない。どちらかというと風刺小話としての出来の良さがわかりやすい。ただ、対談において作者の名前がミスディレクションになっていることや、このジャンルに必要なのは類似性だけでなく飛躍だというアマチュア向けの指摘を読むと、これを収録した意図に納得できる*3。なるほど新都市が建設される情景は、想像すると絵としての美しさがある。
連城三紀彦『親愛なるエス君へ』は、当時に話題となった実際の猟奇事件に着想されたもの。すでに2作品で今回の方向性が明示され、それでも騙されると対談のふたりがハードルを上げていたが、たしかに完全に騙されてしまった。どの類似性で読者を騙すかという分類を読者に考えさせたからこそ、読者の注意をあちこちにそらして核心から外させた効果もあるだろうか。真相を知った上で読んでも、あらゆる意味で現実の鏡像となっている構成になっていて、小説としても美しい。


4章はアンソロジストとして北村薫をむかえた鼎談。
会田由訳『油あげの雨』はスペインの童話。北村薫が小学生時代に鉛筆で写して作ったスペイン童話集の巻頭作品だという。愚かな夫が大金を拾ってきたのを見て、賢い妻が不思議な行動を始める意味が、最後まで読むと理解できる……という掌編。どこかアラビアンナイトの一編のようでもある。読者が予想できないことで、妻の賢さが強調されるという構造になっているのが面白い。解かせようとして謎を示すのではなく、何が起きているのかすら理解できない構成も、ミステリらしさが弱いことでむしろモダンに感じさせる。
別役実『六連続殺人事件』は、日曜日ごとに女性が殺される事件を、シリーズ探偵が解こうとする。連続殺人が止まったことで犯人の体調を人々が懸念する局面がおもしろい。しかし探偵の推理はそこそこミステリっぽいが、真相はあえて重々しい意味を否定するような作り。あくまで肩のこらないパロディと読むべきか。
大川一夫『ナイト捜し』は、現在は弁護士として活躍する人物が京大ミステリ研究会創設者のひとりとして出した犯人当て。暴漢から守られた女性が、探偵役に協力してもらって、旅館に泊まっている三人の証言だけから正体を探しだす。裏の裏をかいている出題文の意図を読み取ることがポイント。証言のわずかな手がかりもしっかりしている。当時は誰も当てられなかったそうだが、現在は編集者に出したところ一定の正解率だったとのこと。実際に北村薫はお手上げだった一方で有栖川有栖は的中。私も手がかりは無視して的中させることができたが、これは先に挑戦状にトリックをしこんだ『意外な犯人』を読んでいたおかげもあるだろう。

*1:『綾辻行人と有栖川有栖のミステリ・ジョッキー(1)』 - 法華狼の日記

*2:映像などの記録は禁じられていたが、記憶起こしのレポートがいくつか存在する。¥ß¥¹¥Æ¥ê¡¦¥¸¥ç¥Ã¥­¡¼¡¡¸ø³«¥é¥¤¥Ö

*3:以前にエントリに転載したショートショートを連想したが、比べて読むと稚拙なだけでなく、指摘の問題が丸ごと当てはまる。それはすでに踏み固められた道だ - 法華狼の日記

『俺、ツインテールになります。13』水沢夢著

さまざまな性癖*1を力に変えて異世界の侵略者と戦うシリーズの、TV番組ならば1クールひとくぎりにあたる13巻目。
シリーズの序盤をTVアニメ化した制作会社が倒産したとの報を聞き*2、2017年8月に出版されたものを今さら読了したが*3、全キャラクターが活躍する一大決戦として堪能した。

12巻で引いた時は次巻で完結かと思ったが、実際は現時点で15巻までシリーズが続いている。読んでみると、敵首領の正体などの基幹情報は隠されたまま。主人公チームが倒した敵へ投げかけてきた過去の言葉がはねかえってきて、過去のドラマを深く掘りさげてまとめつつも、敵組織をゆるがすほどの新情報は出てこない。
しかし特撮番組パロディ小説らしい再生怪人との戦闘で活劇として楽しませつつ、再生怪人の自我や残存敵部隊の葛藤も描くことで、敵組織内でも群像劇的なドラマを展開。そこから決戦の様相が変わっていくことで、今回は主人公チームが防戦一方なのに展開が単調にならない。
もちろん偏執的なツインテール問答も、あいかわらず魅力的ではある。他には、百合豚きわまりないティラノギルディのうっとうしさが、つきぬけることで最終的には好感をもてたし、けっこう泣けてしまった。


また、会話文の連続には必然性があるべき*4という思想において、ほぼ理想的な作品という良さもある。かなり細部までコンセプトをつきつめて書かれた小説として、展開にも表現にも無駄がなくてリーダビリティが高い。
特に、挿絵が重要なライトノベルならではの、結末のイラスト演出が感動的だ。もともとイラストに限らず、真面目なドラマを展開していくかに見せて頁をめくるとボケで落とすという、頁ごとの文字数を考慮した演出を多用する作品だ。さらにイラストでわかりやすく媒体の特性を活用していて、それが本当に効果的だった。

*1:性嗜好というのとは、ちょっと何というか違う……

*2:状況のきびしくなった制作会社AICから派生した会社のひとつだが、元請け作品でしばしば制作状況のまずさが目に見えるようになっていた。「はいふり」制作・プロダクションアイムズが債務整理 「破産手続き念頭に」 - ITmedia NEWS

*3:ついでに14巻まで読了した。

*4:もちろん会話と会話のあいだに挿入される地の文にも必然性があるべきと思っている。漢字のひらきかた、文字のひとつひとつ、改行の位置、空行、記号、それらすべてに必然性がある文章が理想だ。

ライトノベル表紙群や『ドラえもん』をめぐる、表現の部分否定と全否定

『ドラえもん』のトロフィーワイフ問題について - 法華狼の日記

chounamoul氏のツイートだが、娘の発言を紹介するかたちは気になるが*2、ひとつの感想として理解はできるものだ。

 *2:これ自体がパターナリスティックなふるまいではないかという注意がほしい。親という立場は、どれだけ気をつけていても子を誘導しかねない権力関係がある。

上記の後日談として、今度は本屋で平台におかれたライトノベルの表紙に対する「娘」の評価をchounamoul氏がツイートして、話題となっているようだ。
「ライトノベルにおける性の商品化」と、それに「全ライトノベル作家を代表して謝罪」する「国際信州学院大学ライトノベル研究会」 - Togetter

本題に入る前に、今件で過去のchounamoul氏のツイートを多く読んで、「娘」の意見や情報を多く出しすぎなのではないか、という懸念は強くもった。
さすがに写真などは隠しているが、注目されているアカウントで発言どころか似顔絵まで公開している。将来にわたって娘の理解がえられるだろうか。


ともかく表紙群への気持ち悪いという評価を出したツイートに対して、このような書店の空間に娘をつれてくることへの批判や、売れている書籍を書店が平台にならべるのは当然といった反応がある。
よくリツイートもされた代表的な批判として、現在は消されているlyricalium氏のツイートがあった。
はてなブックマーク - まっぅら姫は振り向かない🍤🥦🍆💛📖🦇 on Twitter: "シュナムル氏の娘氏、ああいう本を気持ち悪がると父が喜ぶというのはもう叩き込まれてそうだし、それはああいう本を読んでみたいと思っても買ってもらったりできない、図書館で借りたりお小遣いでこっそり買ったりしたら隠さなきゃいけない境遇ってことだろうと推測され、気の毒だが、強く生きてほしい"

シュナムル氏の娘氏、ああいう本を気持ち悪がると父が喜ぶというのはもう叩き込まれてそうだし、それはああいう本を読んでみたいと思っても買ってもらったりできない、図書館で借りたりお小遣いでこっそり買ったりしたら隠さなきゃいけない境遇ってことだろうと推測され、気の毒だが、強く生きてほしい

たしかにchounamoul氏はパターナリスティックな部分に配慮は足りないとあらためて思うが、lyricalium氏もまた娘の“本心”を決めつけかねないパターナリズムに無自覚ではないだろうか。
親を通して語られる娘の思想が“親の教育”の賜物という蓋然性はあるとして、かといって“娘の思想”を親に従属しているとみなすことも人格を無視した態度という自覚は必要だ。
lyricalium氏は自身の性自認を男と表明しているのだから、その上で「娘」の心象を推測していることの意味を、もっと深く考えてほしい。


また、今も残しているlyricalium氏のツイートとして、ならんでいるライトノベルのひとつ『境界線上のホライゾン』の女性人気が高いという主張がある。

「「おっぱい!」な表紙」という説明から、そういう評価をlyricalium氏も自明のものとしていることがわかる。約10年前のシリーズ開始からライトノベル全体から見ても特異という印象はたしかにある。

なお、実際にどれほど女性人気が高いのか、lyricalium氏ははっきりとした根拠をもっていなかったようで、少し意見を後退させている。

ここで冒頭の後日談として興味深いのが、しずちゃんの位置づけに違和感を表明しつつも「娘」は『ドラえもん』を楽しみつづけていて、それをchounamoul氏は幸せに思っていること。

ある表現の一部を否定することは、その表現全体を否定することと同一ではない。chounamoul氏が同一視するだろうという憶測は、現実にてらしあわせて失当だ。
また、chounamoul氏の『ドラえもん』についてのツイートを読んでいたところ、今件より以前に、娘ではなく自身の評価として、性差別とは別個の批判をしているものを見つけた。

一応、原作などでは周囲のキャラクターの性格の悪さは意識的に描かれており、逆に最初から猫と解してもらって喜ぶエピソードなどもある。原作版の『のび太とアニマル惑星』のように、自認との乖離をギャグとしてつきつめたこともある*1

同時に、単純な「イジリ」で終わらせる描写を苦手に思う観客がいることも理解できるし、そうしたギャグ観の変化がいっそう作品に反映されていくのも時代の流れだろうと考える。


ライトノベル表紙の話題にもどるが、たとえば下記のwakari_te氏によるツイートは、状況の置き換えとしては失当だと考える。

ツイートにあるゲイ雑誌をゲイ向けポルノと解するとして、それを「気持ち悪い」と評するのが「子供」では、自身の属性を表現に使われた「娘」という構図とは異なる。
もっと比喩として近づけたいなら、たとえば女性向けボーイズラブ作品の表紙群を見た男性同性愛者が「気持ち悪い」と評する場面にするべきだろう*2
たとえ属性を支援し賞揚する作品であっても、否定的反応はおこりうる。映画『ジャンゴ 繋がれざる者』へスパイク・リー監督が嫌悪を表明したように。
スパイク・リー監督、『ジャンゴ 繋がれざる者』は祖先に対して冒涜、観るつもりはないと発言 - シネマトゥデイ
むろん表現された属性をもつひとりの意見が作品評価を決定するとは限らない。さらに属性と表現の関係も作品によって異なるだろうし、属性の社会的な位置づけによって異議の強度も変わるだろう。
しかし、そうした批判や異議は珍しいものではなく、どのような表現でも起きうるし、事実として起きているという認識はもつべきだ。ひとつの表現だけが差別的なまなざしを向けられているという理解は失当だ。

*1:連載と並行して映画が作られるため、原作で特に印象的なタヌキにまつわるオチは、映画では登場しない。

*2:男性同性愛者の年齢や社会的立場によって、どこまで「娘」と似ていると考えられるかも、また議論があるだろうが。

津原泰水氏のWEB小説語りと、孫向文氏のラノベ語り

津原氏の上記ツイートに対して、孫氏が下記ツイートのように批判した。

そんな孫氏本人の政治に「ラノベ」をからめたツイートが下記のとおり。


なお、下記ツイートによると津原氏がチェックしているのは「小説家になろう」でも、かなり偏った集合らしい。

また、下記ツイートから「 “異世界ではモテモテ” 話」の全てを小説未満と評価しているわけではない意図も明らかではある。

それはそれとして、対象を無闇に広げて誤解をまねきやすいことを覚悟して比喩は慎重に使うべき、という一般論は思い出すのだった。

Gyo_ree氏の「推理小説の書き方」は、「推理小説には主人公が二人必要です」という主張で引っかかった

「いらすとや」の画像を素材にして漫画形式で自己流のミステリのつくりかたを説明しているのだが、2番目のツイートでいきなり首をかしげてしまった。
「ミステリで大事なのは人間ドラマでトリックは付属物」初心者でも書ける推理小説講座がミステリ界隈で炎上 - Togetter

このツイートは、たとえば犯人視点の倒叙ミステリや、主人公と名探偵が同一人物というパターンを無視している。複数視点で事件を追って全体像が見えていくパターンへの応用もできない。
刑事コロンボ』に代表される倒叙ミステリは、主人公の犯人と対立する名探偵のふたりだけでも成立する。名探偵に追いつめられる恐怖を描く物語において、平凡な脇役の迷推理はノイズになりがちだ。
名探偵が読者と同じ視点で情報を集めていき、読者より少しずつ先に論理を組み立てるパターンは、事件と推理が同時進行することでサスペンスがとぎれない利点がある。名探偵が事件を止められないことに不自然さがないので、連続殺人事件などにも向いている。真相に気づいた瞬間の感情も共有しやすい。
そもそも名探偵と助手とでキャラクターの知能を偏らせる手法は、一方のキャラクターを下げることになりがちだ。一次創作ならまだいいが、Gyo_ree氏の書いている二次創作では好まれにくい手法ではないだろうか*1
つづく3番目のツイートも、事件に対する思想で名探偵と助手が対立して終わるパターンや、名探偵か助手のどちらかが真犯人というパターンを無視して成立している。


むしろGyo_ree氏のツイートは、4番目からはじまるトリックの作成方法こそが実践的だと思った。

根幹トリックを補完する偽装工作をリスト化していって、その偽装工作の粗をつぶすようにリスト化していくのは、かなり使える手法だろう。さらに偽装を犯人だけがおこなうのではなく、被害者や第三者の行動と組みあわせていくと、さらに発展性が生まれるし、囮にとどまらない存在意義がキャラクターに生まれる。
根幹のトリックはシンプルで良くて、その偽装や解明でアレンジしていくというのも、わりとモダンな本格ミステリの傾向だと思える。

*1:私自身、ミステリ的なプロットを組みこんだ二次創作では、主人公自身が失敗をくりかえしながら真相に近づいていく手法を選ぶことが多い。